シアター上野ヲ思フ

 令和三年四月十六日、衝撃的なニュースが流れてきた。シアター上野のガサ入れだ。そして従業員と踊り子含む計六人を公然わいせつ容疑で逮捕したと、警視庁保安課から発表された。

 記事によると目的を『生活の為だった』と踊り子は述べている。この簡潔な言葉の揚げ足を敢えて取るならば、『生活の為に仕方なくやっていたのだろう!』となるのだが。風営法に基づいて届け出をして営業をしている箱で、自分の生活費を稼ぐための手段として選んだことに対しガサを入れるのは理不尽極まりない。

 昨今はメディアの露出が増えたせいか、今回の件でのコメントはファン以外でも擁護のものが多かった。また翌日には日本芸術労働協会が、ネット署名の検討に入るという興味深い動きが見られた。
 日本芸術労働協会がこの件を問題視した理由として『性表現の自由と規制、職業選択の自由などの労働問題等、芸術労働に関わるものと認識している』と述べている。
 業界関係者よりも先に芸術分野で素早い動きが見られたのは、ストリップというジャンルがただの風俗産業の枠に抑え込むべき存在ではないからだろう。
舞台上での本番行為が行われていたような時代ならいざ知らず。昨今のストリップはエンターテイメント性が高く、エロスに特化した表現の至高分野であることが知れ渡って来たからではないだろうか。

 ただしストリップの魅力として芸術性を強調すればするほどに、『表現として脱ぐ』ことにおいて下着を取る理由付けが必要になってしまうだろう。
 脚本展開的に必要性が生じた局部の露出―性行為の場面や、自慰の場面。―でない限り、ポーズを切っての局部の露出は、極論晒したことを強調していると言われても致し方ないだろう。
 似たような事例としてコロナウイルスが流行する中で、風営法を守り届け出をした風俗産業に給付金が支払われないのは、国として職業を差別していると宣言しているようなものだ。
 風営法を遵守しそれにそって営業している店に対し、有事の際の補償が降りなかったり摘発されたりするのは、国が定めた法律を国が守っていないので甚だ遺憾である。

 四月十七日付けの毎日新聞によると、『東京五輪を前に、盛り場対策に力を入れ、環境浄化を進めていきたい』としている。が、それこそ矛盾を声を大にして言っているようなものだ。

 このような背景には風俗産業=不純なもの。という考えが一般論として世間に浸透しているからだろう。先述した通り、職業は金を得る為の手段に過ぎない。その手段に対し(法に基づいていることが大前提である。)感情論で力が介入されてしまうのは、法治国家として大問題ではないだろうか。

『婦人議員は二言目には〟人権、人権〝というが、生活の為に余儀なく売春しているものを一方的に処罰するのは納得できない』これは昭和三十年七月七日、売春処罰法案を審議中の衆議院法務委員会に参考人として出席した、長崎県の現役売春婦の浜田八重子が述べた言葉だ。(1)同法案はその後否決となり、不成立で終わった。

 時代も状況も違うので言葉の全てを当てはめることはできないが、この言葉は今でも通ずるものがあるだろう。生活の為の労働は、どんな職種であり大概多くの人が行っていることだ。

 シアター上野という存在は上野の街を浄化するにあたり、捜査しなければいけない程の不純なものだったのか。その答えが否であること言える存在は、社会的に見たら少ないのが事実だ。

 時代に応じて流動的に変化を続けて、今日まで残ったストリップ劇場。今回の件を受けて業界的にどのように変わってゆくか、一ファンとして期待している。
 閉館宣言をしてから何度も生き返った、不死鳥・広島第一劇場のように。斜陽産業とされていても何度も返り咲いて、独自の魅力を確立させてほしい。